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● 恩と怨について

2003.8.18./中沢康治

 

 
 
 

 

先日、ホテルヴィレッジで行われた法事のパーテイで、お隣に座った町民のKさんがお酒の酔った勢いで「子供がスキーでお世話になったので、町会議員の選挙となれば、Yさんと決めている」といいました。「あっ、それはまずい、選挙は政策とか、少なくとも悪いことはしない人とかで決めるべきで個人的な関係で投票すると草津がだめになりますよ」「恩を売った、返えすの行き着く先は義理人情のヤクザの世界です」「選挙は感情ではなく理性でしてください」 などと言ったら「恩を返してどこが悪い」と小突かれてしまいました。

そういえば前に「先代さんにお世話になったので応援させていただきます」と誰かに言われたときは「それはまずい」と言わなかったのですから私も同じ穴の狢かもしれません。しかし、田舎の選挙問題はここにあると思います。いや日本の選挙の根っこに、これがあると思いました。恩を選挙で返えすのでは立候補者は出来るだけ個人的な恩を売っておけば当選するということです。「先々代に、先代に、当代にお世話になった」これが選挙の地盤です。

お世話になった恩を<その人>に返そうとすることはわが国では「恩返し」といって道義的にいいとされ、親孝行、義理人情(とくに群馬県)は一般人の道徳律になっています。町会議員の選挙は町を如何に考えるか?政策は?などではなく「お世話になった恩返し」のようです。1971年アメリカを98日間放浪したとき、見知らぬアメリカ人に大変お世話になりました。「何かお返しをしたい」と申しましたら「私は好きでやっている。その気があるならあなたも他の人にやってください」といわれました。このとき、恩は他の人に返せるのだと気づきました。アメリカは契約社会で、約束とその実行の世界で、金銭で貸借は解決し、貸し借りの残としての恩や怨はあまり残さないようです。そして義理や人情などの人間関係では優越したり隷属したりせず、自立した個人の自発性によるようです。ボランティア活動も、わが国では「情けはひとのためならず-後で自分に返ってくる」「お互い様」といって「戻り」を期待したり、「皆がやっているのでやらないとかっこつかない」などとまったくの自発性ではないことが多いようです。

恩の反対にマイナスの恩、つまり「怨念」があります。やられたら何時か与えたものにやり返す、あだ討ちや復讐(リベンジ)があり「目には目を歯に歯を」というイスラムの教えは、国内では禁止され、実行すれば「忠臣蔵」のように法により裁かれます。ところが、国際間ではまだまだ「目には目を」の思想は生きており、アメリカ人も例外ではありません。TVの復讐物や「忠臣蔵」に人気があるように、復讐思想は根強く残っています。北朝鮮との「拉致問題」では「太平洋戦争時では徴用という名前で日本は我々朝鮮人を大量に拉致したではないか」とか、「同時多発テロ」の報復の「イラク攻撃」の報復の「自爆テロ」とか、パレスチナとイスラエル問題などなど、当然と思われていますが、これでは繰り返しとなってエスカレートし、解決にはなりません。このように「恩や怨」は与えた人に返すのが当然と思われていますが、これは「親分子分のヤクザ社会」や「国際紛争」の元になりそうです。受けた「恩も怨み」も与えたものに返さず、「恩」は他の多く人々に、「怨み」は「法的報復(国内法を参考にした国際法の充実)」にまかせ、何とかして恨みを乗り越え誰にも返さないような運動が必要ではないでしょうか。動物の社会ではその場の争いはあっても「相手を覚えていて」恩を返したり、恨みを晴らしたりする事はしません。「恩返し」をもう一度考え直してみませんか?

 

 
 
 
 
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