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草津の教会〜コン・ウォール・リー女史

セントバルナバ教会の出来た頃(地図

草津温泉にも教会があります

この教会の名前は「セント・バルナバ教会」と言い、大正5年6月に創設されました。その頃の世界は大正3年にオーストリア皇太子の暗殺がきっかけとなって第一次世界大戦が勃発し、また大正6年には王侯支配のロシアが革命を起こして政治を民衆の手にと叫んだ頃でした。

変わって国内では、 横浜港に入港した「ハワイ丸」という船の乗船客がもたらしたコレラ菌によって国内全土にコレラが蔓延し、実に7482名という死者が発生してしまった(大正5年)ときでもありました。


コン・ウォール・リー女史

1857年5月20日英国カンタベリーの名門に生れた彼女は幼い頃より頭脳明晰であったと言われ、イギリスで学業が一段落するとフランスに留学をおこない再度スコットランドの聖アンドリウス大学で勉学に励んだと資料には書いてありますが、その内容がまた大変濃いもので、教育学、経済学、言語学、 英文学を専攻したそうです。また、女史は非常に文才 豊かな人であり四冊の著書がロンドンで出版されているとのことですがこれについての詳細は残念ながら現段階では判明しておりません。

このコン・ウォール・リー女史は二人きりの兄弟である兄を早くに亡くし、軍の幹部であった父もその頃には既に他界しており、年を取っていく母親のために世界旅行を思いつきました。その途中に日本へも立ち寄っていると記録には残っていますが、果たして母はその直後になくなり彼女はなぜか思い立ったように来日しています。この間彼女の胸中でどの様な心境の変化があったのかと言うことは知る由もありません。 いずれにしても、こうして彼女が日本の地に足を踏み入れたとき、何と既に51才(明治41年)であったという事です。


当時の草津湯ノ沢地区

その頃の草津の湯ノ沢地区は、半ば公然の「らい病」患者達の療養の場であったと言われています。当時、この病気は不治の病として恐れられ患者達はその生活がすさんだものとなり地区は治安も乱れて無頼の輩が横行するところであったと当時の記録にあります。しかしながらすでに先遣者がいたことはいました。当時熊本県でハンセン氏病患者の救済活動をおこなっていた「リデル女史」という人の意志によって当地に派遣された伝道師が「光塩会」と言う団体を設立してその救済を計っていたそうです。ところがこの団体は純粋に宗教としての活動をおこなうことが目的であったらしく、実際の病人達の世話をおこなうことはその範疇になかったようです。

これに疑問を抱いた信者の一人が、何とかもっと具体的な救済活動をおこないたいものだと考えていたところ、自分が以前いた東京のらい療養所「慰廃院」と言うところでコン・ウォール・リー女史の慰問を受けたことを思い出し、どうしてもリー女史にあってこの現状を打開して貰いたいと必死に探し始めたそうです。その結果、彼女は牛込聖バルナバ教会に在籍していることが判明しのだが自分はとても東京まで行くことは出来ない、そこで光塩会員の会員でもあった宿沢なにがしと言う人に頼んでみたところ一も二もなく賛同してくれた同氏はすぐさま尋ねていき、草津の現状を切々と何と4時間にもわたって訴えたと言うことです。


リー女史・草津視察〜聖バルナバホームの設立へ

大正4年、ついに女史の草津視察がおこなわれその現状を目の当たりにするやいなや女史はすぐさまとって返し翌年大正5年5月雪解けを待って草津湯ノ沢地区へ移住したのでありました。 この移住からその後20年間にわたって彼女のらい病患者との戦いは始まったわけです。

移住した翌月の6月には聖バルナバ教会が完成し、女史はそこで依頼を受けた宿沢なにがし(実はこの人も伝道師であったと言われています。)の救らいの仕事を積極的に手伝い、患者達の心を慰めることに専念したそうです。

この活動中のさなか、不治の病という事に対する言いしれぬ不安から来る若い女性達の風紀の乱れが彼女を悩ませ、一人の信者のそのような行動を契機にしてリー女史はある旅館の客室を貸切り、それら女性を隔離しました。これで解決したとは思えなかったリー女史は、結局その旅館の別館一棟をすべてを買い上げて女子専門の収容ホームとし、みだらな振る舞いや妄想から立ち直らせる場所としたそうですが、これが後の「聖バルナバホーム」の始まりであり当時は「聖マリア館」と呼ばれていたそうです。 このあと続いて男子ホームや家族ホームを設営し、また未感染者の子供達を収容する「聖マーガレット館」という施設も設営しました。 これらを総称して「聖バルナバホーム」と呼称していたそうですが、リー女史のすべて私費でまかなわれその設営した建物は教会一棟、収容施設など35棟、合計36棟にもなる一大エリアだったわけです。 こうして彼女の親から受け継いだ遺産と彼女自身の私財は一切が湯ノ沢地区のらい病収容施設の建設と運営に使われ、その深い信頼関係から入居者達からはマザー・リーとして親しまれていたと言うことです。

現在聖バルナバ教会のあるところは頌徳公園として整備され、リー女史の偉業をたたえる石碑が建立されています。(写真左上)


■草津聖バルナバ教会の要旨
住  所 〒377−1711 群馬県吾妻郡草津町大字草津289
T E L 0279−88−3640
交  通 草津町内循環バス・清水畳店前下車徒歩3分
大滝の湯前(ヤングイン高松付近)より徒歩3分
牧  師 司祭 ヨハネ 松浦 信
主日礼拝 毎週:午前11時00分(聖餐式)

その後のリー女史

これらのリー女史の献身的な行いがようやく国にも認められ、藍綬褒章や勲六等瑞宝章などの勲章を受章し、また貞明皇后より御内幣金を賜ったりもしたが、昭和10年頃より老衰が顕著になり昭和11年、彼女は来草以来20年間奮闘して行ってきたらい病救済事業の一切から手を引き、兵庫県明石に居を移した。 それからさらに6年の歳月が流れ、昭和16年12月18日、彼女はついに生まれ故郷であるイギリスに戻ることなく、また20年の月日とすべての私財を投じて患者達を救った草津にも戻ることなく永眠したのです。


編集後記

昭和16年4月、聖バルナバホームは国立療養所栗生楽泉園の完成と共にその任を終え、閉鎖となっていますがその後のらい病患者に関する国の対応の顛末は最近特にニュースなどで騒がれているので読者の方の方が良くご存じであろうと思われます。

なお、末筆ではありますが、今回のこの記事に関して色々とお話しをして頂いた関係者の皆様にはこの場を借りて謝辞申し上げます。

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